第二章 捜索


では話を進めよう。


数秒間
その場で寝転がったままの私は、たった今、何が起こったのかを整理することに努め、まず頭によぎったのは
あの男は、何処に消えたんだ?”
私はストリートを見渡した。するとちょうど、男が次の右の角を曲がったところが見えた。
私はすぐに起き上がり、服についた雪を払いのけながら男を追った。
彼は道路を横切り、13区を離れ、別の通りへと走っていく。私が角に着いたころ、彼がドアウェイに入っていくのが見えた。
私は静かに誰もいない道を歩き、そして酒蔵のエントランスを見つけたのだ。そこはマンションの一階の一区画だった。数段の下り階段が中へと続いている。ここは労働者達が酒を組み交わし、煙草と大衆的な会話を楽しむ場所のようだ。
私は階段の奥を覗き込んだ。低い声の会話が聞こえ、ワインと煙草の臭いが鼻をつついてくる。
私は雪の中、立ち尽くし、どうするべきか決めかねていた。
とても奇妙な感覚に襲われていて、酒蔵への階段を降りる脚がすくんでいた。
誰を見つけられるかも定かではない。
振り返り、自分の足跡を見た。黒かった足跡には既に新しい雪が積もっている。

私の足跡・・・

!! 私の足跡しかない!!彼のは何処に?

慌てて私は辺りを見回した。
気が動転するとはこの事だ。何が起こっているのか、頭が延々と回るが答え等みつかるはずもなかった。

脚はついに酒蔵の階段を降り始めた。この類のバーに入るのは初めてだ。
ドアを開けると、冷え切った体には心地よい空気が体を舐めた。客の下品な笑い声が聞こえる。
中は薄暗く、この暗がりに目が慣れるのにしばらくの時間がかかった。
私は辺りを見回した。
2、3人の労働つなぎを着た男達のグループが立って、ワインと会話に興じている。
向こう側のバーカウンターを見ると一人の男が酒を買っているのが見えた。
私はあの男だと期待したが、どうやら人違いで若いブロンドの男がバーマンと会話をしている。
たいして広くない場所だ。私は店の中を歩いて注意深く皆の顔を伺った。
男”は何処にも見当たらない。私はバーカウンターに向かった。
「奴は何処いったんだ?」
バーマンに尋ねた。
「奴って?」
何のことだか解らず聞き返すバーマン。
「私が入ってくるちょうど前に来た男さ。もう一人私以外の男が入ってきたはずだ。奴は何処に?」
バーマンはブロンドの男に向き直り、”誰だ、この変人は?”とでも言いたげな顔をしてみせ、そこでようやく自分自身が妙な態度を取っていたことに気づいた。
「すまない」
やり直しだ。
「友達を探しているんだ。ちょうどここに入っていったように見えたので、私も後に続いたのさ。私が入る前に、誰も入ってこなかったってのは確かかい?」
「見てごらんよ」
部屋にいる男達を見るようにバーマンは促した。
「他に部屋はないのかい?」
「トイレだけさ」
バーマンは角のトイレのドアに目をやった。
私はそこに向かいドアを開けた。鼻をつつく嫌な臭いのする汚くて暗い場所だ。
そしてそこは空だった。
どうすればいいんだ?私はしばらく店に留まり何が起こったのかを知ろうとした。

「辛口のワインをくれ」
私はバーカウンターに戻った。
バーマンは慣れた手つきでグラスにワインを注ぎ差し出した。コインと引き換えにワインを受け取り、一口、ワインを口に含ませた後、空いた空間に移動した。
私は腰ほどの高さの狭いテーブルに立ったまま寄り掛かり角のテレビから流れるニュースを見ていた。椅子はないので立ち飲みだ。そして何かさえ解らない何かを待った。
バーには誰も入ってこないし誰も出て行かない。
アンドレは私が何処にいるかを知らない。
もう一杯ワインを空け、一時間程経った頃、その場を離れた。
虚無感しかない。
何ひとつ、手がかりを見つけることが出来なかった。
それは空の胃袋に飲みすぎたワインのせいじゃないということが、唯一つ、理解できることだった。


「ワインと煙草の匂い!」
玄関のドア側に立つ私のコートと靴を取ってくれるアンドレは、いかにも嫌そうなしかめ面をしてみせた。
「何処いってたの?」
「ああ、ペーターと飲んでた」
「今日、彼と仕事で討論になったのさ。だから俺は彼とその事について話し合いって飲みに誘ったんだ。明日、その件での重要な会議がある為にも、事をスムーズに運ばせたかった」
悪く思わないでくれ” 私は常に妻に対しては誠実であったし事実無根のことなど話したことはなかった!
ただこれについてはだ。この夜、何が起こったかは、この事実は言うべきではない。バーからの帰り道、そう決めた。何故って全ては馬鹿げていることに聞こえてしまう。
誰かがビルから飛び出してきて、衝突して私を雪道に倒し、振り返り謝った彼の顔は私の顔だった。そして彼を追ったが、彼の足跡は残ってなくて、酒蔵に入っていったのを確かに目撃したにも関わらず、そこで彼を見つけることが出来なかったなんて。
全てが本当におかしな話だ。まともな事等何一つない。
だから彼女にはペーターとの話をした。これが事実であればいいのに。
この時、私は本当に自分の顔をした男に会ったのか確信が持てていなかった。

だが、ディナーの前に顔を洗った際のトイレの鏡で、私は自分の顔を見た。
毎日見る顔だ。見間違うはずが無い。そうだ。あれは確かに自分の顔だった。
似ている顔に会ったわけじゃない。
私は”私”を見たのだ。

この夜、ベッドの上。私は眠れずにいた。
今日の出来事が、私を支配し、頭の中はそれで埋め尽くされていた。繰り返し繰り返し頭がまわる。
アンドレは私の様子がおかしいことに気づいている。
彼女は後ろから私の体に腕を回してきて静かに聞いてきた。
「何かあったの、ダーリン?」
....何もないさ。仕事でのことが気になるだけだ。心配しなくていい」
そういって彼女にキスをした。彼女に余計な心配をかけたり巻き込むことは避けたい。平静を装わなければならない。

私”に会う迄。私は自分自身をノーマルな知的で良識のある人間だと思っていた。
身の周りの世界のことは多かれ少なかれ仕事もプライベートもそつなくこなした。例えそれが異国の都市、ブダペストだとしても。

しかし、あの夜、あの道で起こったことは確実に私の中の何かを変えた。
あの時のビジョンは未だ鮮明だ。
暗くて、雪に包まれた地面に私は倒れている。
私の見上げる先には、私を見下ろす”私自身”。

ひどくひどく、恐い。ただそれだけだった。