登場人物


  • ジョン タイラー
    イギリス人のコンピュータープログラマー。ブダペストにある国際事業を手がける会社に勤めている
  • アンドレ タイラー
    ジョンの妻。ハンガリー人で職業は教師
  • ケイティ タイラー
    ジョンとアンドレの娘。赤ん坊
  • ゾルツ
    ブダペストの13区のジョージー通り沿いにあるバーの主人。
  • ジャノス サボゥ
    ジョン タイラーのドッペルゲンガー。1956年のハンガリー革命の際に死去
  • フィッシャー夫人
    生前のジャノスを知る老婆
  • ポール ハリス
    ジョンの古くからの友人

プロローグ 奇妙な出会い

月の月曜の夜。仕事を終えた私は凍える寒さの中、家路を歩いていた。空を見上げると、いくつかのまばらな雲がビルの間から覗いていた。
ハンガリーの首都、ブダペストのメインストリートから程なく離れた13区の辺り。通りは暗くて狭く、歩く人並みは少なかった。
この夜は特に静かで、まるで街が何かを待っているような印象を受けた。

私は歩きながら職場で起こったことを考えていた。
ハンガリー人の同僚とのディスカッションで激しく対立したのだ。それは私がここに来て以来の深刻な事態にまで発展した。
どうすればいいのか考えをめぐらせるかたわら、家では妻のアンドレが得意料理の一つの美味しく温かいスープを用意してくれている事に期待した。
分後、雪がひどく降り始めた。程なくしてストリート一面は雪に包まれ完全に真っ白になった。
特に暗い通りに差し掛かった頃。歩いていると突然、ドアを激しく閉めた騒音が響いた。どうやらビルの中のようだ。
そして私は誰かがビルの中を走りぬける音を聞いたのだ。
突然の出来事だった。
通り沿いのビルのドアが開き、出てきた男が私に正面からぶつかってきたのだ。
たまらず私は雪のマットに尻もちをつき、雪しぶきが舞い上がる。

「なにしてんだ、気をつけろ!」

私の声は静かで真っ白な辺りに響き渡った。男は振り返り私をちらりと見た。

「すまない」

とても小さい声のハンガリー語でそう言った後、声の主は静かに歩き去っていった。
その瞬間、私が見たものは何か。
暗い冬の通りで、とても奇妙なもの、そしてとても恐ろしい。

なぜなら、私がみたものは”私”だったのだ。
私の顔が、私を見下ろして、私の口が「すまない」と静かに動いたのだ。

第一章 私について



残りの話を進める前に、私の事について触れておいたほうがいいだろう。

私の名前はジョン タイラー。イギリス人のコンピュータープログラマーだ。34歳で、身長はメートル近くある。うすいブラウンの髪、眼は髪と同じ色だ。あごの周りには髭を蓄えている。
年前、イギリスのブリストルに在る私の会社が国際事業で大きな成功を収めた。言えばあなたも会社の名前ぐらいは気づいてくれるだろう。
事業拡大の為、会社は若いハンガリアンチームを引っ張っていける人材を探していた。白羽の矢が当たった私は、ここブダペストオフィスでの勤務をしているというわけだ。
我々の会社の中でもとりわけ新しく、重要なポジションにいる私は仕事には十分満足している。くわえて一度も訪れたことの無かった、この国で働けるともなると興味深いのも当然だ。
多くのイギリス人と同じように私はハンガリーについては3つの事は知っていた。
  1. ドナウ川が都市をブダとペストの2つに分けている
  2. サッカーの国際試合で、一度だけハンガリーはイギリスを破ったことがある。ロンドンで、スコアは6-3
  3. みんないつも熱くて辛いグーラッシュを食べている
知るべきことが沢山あった! で、私はどんどん学んでいったのだ。

会社は私をハンガリー語の特別授業を受けさせてくれる学校に通わせてくれた。
ハンガリー語と英語はかなり違う。さすがに最初は戸惑った。
マンツーマン授業の私の先生、アンドレはとても美しく愛らしい若い女性だ。ダークブラウンの髪に青い瞳と眩しい笑顔。そして彼女は私をよく理解してくれた。
私達のレッスンは、すぐに教室の外でも行われることとなり、少しづつ恋に発展していった。
そして18ヵ月後、私達は結婚した。

平日は会社へ向かう。日中は働き、就業後は13区にある私達のマンションに帰る。
新しいオフィスのあるヴァーツィ通りへは歩いておよそ13分かかる。
通常、朝8時半から就業開始で午後時が定時だ。オフィスは明るくモダンで、私はいつも仕事を楽しむ。そして私は私と共に働く仲間が好きだ。

アンドレは私と働く時間が異なる。決まった教室で授業をするわけではない。いろいろな学校、会社で外国人にハンガリー語を教えている。場合によっては生徒の自宅で授業をすることもある。
我々の住む、13区はぺスト側にある。ドナウ川からそれほど遠くもない。13区の中でも古く、狭い道と沢山の小さなバーやレストランで賑わうエリアだ。今でも昔の雰囲気は感じることの出来る古い街。
そして私が、あの日、"私自身"に逢ったのも、この場所の通りでの出来事だった。

第二章 捜索


では話を進めよう。


数秒間
その場で寝転がったままの私は、たった今、何が起こったのかを整理することに努め、まず頭によぎったのは
あの男は、何処に消えたんだ?”
私はストリートを見渡した。するとちょうど、男が次の右の角を曲がったところが見えた。
私はすぐに起き上がり、服についた雪を払いのけながら男を追った。
彼は道路を横切り、13区を離れ、別の通りへと走っていく。私が角に着いたころ、彼がドアウェイに入っていくのが見えた。
私は静かに誰もいない道を歩き、そして酒蔵のエントランスを見つけたのだ。そこはマンションの一階の一区画だった。数段の下り階段が中へと続いている。ここは労働者達が酒を組み交わし、煙草と大衆的な会話を楽しむ場所のようだ。
私は階段の奥を覗き込んだ。低い声の会話が聞こえ、ワインと煙草の臭いが鼻をつついてくる。
私は雪の中、立ち尽くし、どうするべきか決めかねていた。
とても奇妙な感覚に襲われていて、酒蔵への階段を降りる脚がすくんでいた。
誰を見つけられるかも定かではない。
振り返り、自分の足跡を見た。黒かった足跡には既に新しい雪が積もっている。

私の足跡・・・

!! 私の足跡しかない!!彼のは何処に?

慌てて私は辺りを見回した。
気が動転するとはこの事だ。何が起こっているのか、頭が延々と回るが答え等みつかるはずもなかった。

脚はついに酒蔵の階段を降り始めた。この類のバーに入るのは初めてだ。
ドアを開けると、冷え切った体には心地よい空気が体を舐めた。客の下品な笑い声が聞こえる。
中は薄暗く、この暗がりに目が慣れるのにしばらくの時間がかかった。
私は辺りを見回した。
2、3人の労働つなぎを着た男達のグループが立って、ワインと会話に興じている。
向こう側のバーカウンターを見ると一人の男が酒を買っているのが見えた。
私はあの男だと期待したが、どうやら人違いで若いブロンドの男がバーマンと会話をしている。
たいして広くない場所だ。私は店の中を歩いて注意深く皆の顔を伺った。
男”は何処にも見当たらない。私はバーカウンターに向かった。
「奴は何処いったんだ?」
バーマンに尋ねた。
「奴って?」
何のことだか解らず聞き返すバーマン。
「私が入ってくるちょうど前に来た男さ。もう一人私以外の男が入ってきたはずだ。奴は何処に?」
バーマンはブロンドの男に向き直り、”誰だ、この変人は?”とでも言いたげな顔をしてみせ、そこでようやく自分自身が妙な態度を取っていたことに気づいた。
「すまない」
やり直しだ。
「友達を探しているんだ。ちょうどここに入っていったように見えたので、私も後に続いたのさ。私が入る前に、誰も入ってこなかったってのは確かかい?」
「見てごらんよ」
部屋にいる男達を見るようにバーマンは促した。
「他に部屋はないのかい?」
「トイレだけさ」
バーマンは角のトイレのドアに目をやった。
私はそこに向かいドアを開けた。鼻をつつく嫌な臭いのする汚くて暗い場所だ。
そしてそこは空だった。
どうすればいいんだ?私はしばらく店に留まり何が起こったのかを知ろうとした。

「辛口のワインをくれ」
私はバーカウンターに戻った。
バーマンは慣れた手つきでグラスにワインを注ぎ差し出した。コインと引き換えにワインを受け取り、一口、ワインを口に含ませた後、空いた空間に移動した。
私は腰ほどの高さの狭いテーブルに立ったまま寄り掛かり角のテレビから流れるニュースを見ていた。椅子はないので立ち飲みだ。そして何かさえ解らない何かを待った。
バーには誰も入ってこないし誰も出て行かない。
アンドレは私が何処にいるかを知らない。
もう一杯ワインを空け、一時間程経った頃、その場を離れた。
虚無感しかない。
何ひとつ、手がかりを見つけることが出来なかった。
それは空の胃袋に飲みすぎたワインのせいじゃないということが、唯一つ、理解できることだった。


「ワインと煙草の匂い!」
玄関のドア側に立つ私のコートと靴を取ってくれるアンドレは、いかにも嫌そうなしかめ面をしてみせた。
「何処いってたの?」
「ああ、ペーターと飲んでた」
「今日、彼と仕事で討論になったのさ。だから俺は彼とその事について話し合いって飲みに誘ったんだ。明日、その件での重要な会議がある為にも、事をスムーズに運ばせたかった」
悪く思わないでくれ” 私は常に妻に対しては誠実であったし事実無根のことなど話したことはなかった!
ただこれについてはだ。この夜、何が起こったかは、この事実は言うべきではない。バーからの帰り道、そう決めた。何故って全ては馬鹿げていることに聞こえてしまう。
誰かがビルから飛び出してきて、衝突して私を雪道に倒し、振り返り謝った彼の顔は私の顔だった。そして彼を追ったが、彼の足跡は残ってなくて、酒蔵に入っていったのを確かに目撃したにも関わらず、そこで彼を見つけることが出来なかったなんて。
全てが本当におかしな話だ。まともな事等何一つない。
だから彼女にはペーターとの話をした。これが事実であればいいのに。
この時、私は本当に自分の顔をした男に会ったのか確信が持てていなかった。

だが、ディナーの前に顔を洗った際のトイレの鏡で、私は自分の顔を見た。
毎日見る顔だ。見間違うはずが無い。そうだ。あれは確かに自分の顔だった。
似ている顔に会ったわけじゃない。
私は”私”を見たのだ。

この夜、ベッドの上。私は眠れずにいた。
今日の出来事が、私を支配し、頭の中はそれで埋め尽くされていた。繰り返し繰り返し頭がまわる。
アンドレは私の様子がおかしいことに気づいている。
彼女は後ろから私の体に腕を回してきて静かに聞いてきた。
「何かあったの、ダーリン?」
....何もないさ。仕事でのことが気になるだけだ。心配しなくていい」
そういって彼女にキスをした。彼女に余計な心配をかけたり巻き込むことは避けたい。平静を装わなければならない。

私”に会う迄。私は自分自身をノーマルな知的で良識のある人間だと思っていた。
身の周りの世界のことは多かれ少なかれ仕事もプライベートもそつなくこなした。例えそれが異国の都市、ブダペストだとしても。

しかし、あの夜、あの道で起こったことは確実に私の中の何かを変えた。
あの時のビジョンは未だ鮮明だ。
暗くて、雪に包まれた地面に私は倒れている。
私の見上げる先には、私を見下ろす”私自身”。

ひどくひどく、恐い。ただそれだけだった。

第三章 フェルカ通り7番地



次の日の火曜日の朝、いつもどおり会社に向かう私は今夜の計画を立てた。

前日の夜の時5分前、この時に”私”がビルから出てきた。そして私がバーで目にしたテレビはちょうど時のニュースが始まったところだった。つまり、”私”と衝突してからニュースが始まる迄、たった数分しか経っていない。
私は、同じ場所、同じ時間に、この日また訪れることを決めた。
今にして思えば、この日はいつもより時間が経つのが遅かった気がする。
職場ではペーターと先日での問題についての会議があった。この会議では、問題も解決に向けて前に進めることが出来、ペーターとは快い同意まで分かち合った。
その後、いつも通りオフィスのレストランで昼食をとったが、よほど思いつめていたのか、皆に対してほんの2,3言位しか喋らなかった。結果、具合が悪いのかと心配をしてくれる人間が少しばかりいたが、大丈夫だ、難しい仕事について考えてるだけだと口を濁すしかなかった。
この日の6時、定時で私は職場を離れた。
足早に、あの男に会ったあの通りに向かい、すぐに私はあのドアを見つけた。
ドアにはフェルカ通り7番地と印字されている。
待っている間、注意深く通りを観察した。短くて暗い道、昨日からの沢山の雪が、未だ残っている。別側の通りの区画にあるマンション型の建物は19世紀後半から20世紀前半に建てられたものだ。それらの殆どは汚く決していい状態ではなくなっている。
未だに壁の至る所に第二次世界大戦時、もしくはハンガリー革命の際の弾痕を見ることが出来る。このエリアの区画は大きなフロントドアの階建ての建物で埋まっている。
この時、冬の夜、マンションからは、たった1つか2つのキッチンウィンドウから夕食の支度の明かりが漏れていた。
私は待っていた。そわそわと、ゆっくりと歩いて行ったり来たり。
寒い中、アメリカ映画のちょっとした私立探偵気分を味わった。
数人が通りを歩いていくが、この時も前の晩と同じくらい静かだった。
時計を見る。もう間もなく時になる。
私は7番地ビルのエントランスの反対側の壁を背に立った。
静かだ。特に何も起こらない。
7時丁度、小さな犬を連れた女性が通りを歩いてきてドアを通っていった。
しかし特に変わった様子は何も見当たらない。確実にいえることは私に似た人物等、全く見つからないということだ。
私は7番地ビルのドアに向かった。
そして各部屋のドアベルの横にある名札を見た。何かが見つかるかどうかなんて解らない。そこにはよくあるハンガリアンの姓と、この建物の一階にある小さな会社の屋号が連なっているだけだ。
私は前の晩に訪れたバーに向かい、フェルカ通りの通り沿いを歩き、ジョージー通りに入った。そこにバーがあるのだ。私はバーの階段を下り煙たい部屋に入った。
赤ワインをオーダーした私をバーマンは一瞥した。
「友達は見つかったかい?」
「え!?」
意図してない問いかけのせいでワインに向かって咳き込んだ私に対して、バーマンは訝しげだ。
「昨日、あんたが探してた人だよ、見つかったかい?」
胸を叩き、落ち着いた私は答えた。
「いや、実はまだなんだ」
「だからまたここに来た。今夜は見つけられるといいんだがな」
「どんな風貌なんだい?あんたの友達ってのは」
「そうだな、彼は...うん...
私は口を濁すしかなかった。バーマンはグラスを拭きながら私の言葉を待っている。
「彼はね、実をいうと私にそっくりなんだ。妙な話だが本当に瓜二つみたいだ」
「残念ながらあんたに似てる人間は、ここでお目にかかったとは言えないな」
彼は言った。
「とはいえだ。俺がここを買ってから、まだ一ヵ月半しか経ってない。俺もこの辺りの人達を、まだよく知らないんだ。だから常連さんしか見分けがつかないよ」
一人の男がバーカウンターに来ると私は席を立った。角のテレビでニュース番組の最後を見ながらワインをたしなんだ。
よく見ると周りの人達は、みな前の晩に見かけた人だ。少なくとも私に似た人間等は居合わせていない。私は店を出ることにした。

家に帰った後、キッチンテーブルの置き手紙を見て私はほっとした。
今夜は新しい生徒の授業で外出しているとのこと。
これで、また自分が何処にいたのかの仮想ストーリーを作り上げる必要は無くなった。


この夜、奇妙な夢を見た。

夢の中。
ドアを強く閉める大きな音が鳴り響いた。
ビルの中から外に向かって走っていた私は、ドアを開け外に出た直後、誰かにぶつかった。その男。彼はたまらず倒れこんだ。
私は振り返り、すまないと一言告げた。
彼は地面に倒れこんだまま。私が見たその彼とは、まさしく私自身の姿だった。

恐怖で目を覚まし、ベッドルームは綺麗で暖かいにも関わらず、暗さと寒さに震えた。
奇妙な事に、その夢が、あたかも全てを変えてしまったかのように。

夢の中でビルから走って出ていったのは私が見たあの男ではなく、自分だった。
そして私が見下ろした、地面に倒れていた男。それも私だったのだ。

アンドレを起こしてしまったようだ。
「何かあったの?」
眠そうに目をこすり、聞いてきた彼女は明かりをつけた。
返事をすることさえ出来ない私を彼女は心配そうにしている。
「具合悪そうだわ、気持ちが悪い?」
「いや......今のは......夢だ......ただの夢だ」
「ダーリン、かわいそうに」
そういうと彼女は私の頭を抱き、頬にキスをした。
「もう大丈夫。さ、もう寝ましょう。」
私達は再び横になった。
彼女は明かりを消した後、直ぐに寝付いたようだ。
私はベッドに横になっていた。寝付けないまま、暗闇の中、四方の壁を見ているだけ。
あの夢が映画のように鮮明に、頭の中をぐるぐると回っていた。

怖い
しかし、この時私は何が恐ろしいのかさえも解らなくなっていた。

第四章 告白


新しい生活サイクルが始まった。

朝、職場に向かう。仕事をする。会社を出た後に、フェルカ通りの7番地ビルに向かう。必ず時前には間に合うように。そして、あの場所で待ち、その後は酒蔵で時間を費やす。
そして毎晩、あの夢を見てうなされて、闇の中、恐怖に起こされる。
再び眠りにつくと、また同じ夢を見る。眠りにつくことが出来ない場合、闇の中でベッドで横になったまま、何が起こっているのかを考え見つけようとする。

朝が来る度に、私の疲れは次第に増していった。
それに伴い、アンドレへの態度も変わっていった。優しく出来なくなっているのは自分でも解っている。
例の夢のおかげで疲労がピークに達し、気分は最悪だった。
毎晩帰りを遅くする事に対し、アンドレには後ろめたさを覚えているが、未だに事実は伝えていない。
仕事の問題はより深刻化していた。対処しなければいけない問題に向き合うことが難しくなっていた。
更に悪いことは重なり、次の日、アンドレと喧嘩をした。私が何故毎晩ジョージー通りの酒蔵から帰ってくるのかアンドレは理解できなかった。当然といえば当然だ。しかし私は理由を言えるはずも無く、気分が悪くなるばかりだった。
そうして私の酒の量は次第に増えていった。
酒蔵にいる時間が長くなり始めた。何故なら家に帰ること、眠りにつくことが怖いからだ。あの夢をみるのが怖い。自分の家に近づきたくない気持ちが強くなる。
火曜日、相当の酒を飲み、いつもより遅い時間に帰宅した。アンドレは既にベッドにいた。
金曜日、また家に帰るのが遅くなった。リビングでアンドレはかなり不機嫌そうに私を待っていた。疲れた表情で顔色は青白く、青く美しいはずの瞳が充血している。彼女は泣いていたのだ。
「ジョン......
キッチンからチーズとパンを手に取る私に彼女は震える声を投げかけた。
「いったいどうしちゃったの?」
チーズを乗せたパンにかじりつき無言を貫く私を彼女は再度、振り向かせようとするかのように呼んだ。
「ジョン、もう言わなきゃいけないでしょう。何が起こっているの?あなたは完全に変わってしまったわ。お願い、話して」
彼女の声を聞くのが辛い。私は彼女を見た。私が心から愛しているこの美しい人を。私がひどく傷つけてしまっている人を見つめた。人目で解る。彼女もまた、憔悴しているのだ。こんな風にさせてしまったのは私なのだ。私は全身の力が抜け、たまらずその場で泣き崩れた。
彼女は私の体に手を廻し静かに慰めてくれた。まるで私が小さな子供であるかのように。そして私の顔を両手にはさみ、真剣な顔で問いかけた。
「話して、ダーリン」
「あなたを助けたい」

そして全てを話した。
言葉達が私の口から静かに吐露されていく。
そうして話し終わったとき、あろうことか、突然、彼女は大きな声で笑い始めたのだ。
「なんだ、何が可笑しい!?」
怒りを隠しきれない声がでた。
「違うの」
彼女は笑いながら続けた。
「全然、おかしな話だとは思ってないわ。けど私とっても嬉しいの」
笑いを止めて深呼吸をした彼女は落ち着いて話した。
「ほら、私はあなたが誰かと会っているのかとばかり思っていたわ。特別な女性を見つけたのかと思って。毎日が不安でたまらなかった。」
私達は抱き合い、そしてかなり永いキスをした。
彼女は私にまた全てを話すようにさせた。ゆっくりと。彼女は質問をすることを抑えながらも、全ての情報を引き出すことに努めてくれた。
「解ったわ」
「明日は土曜日ね、私達はお互い仕事がない。フェルカ通り7番地に行ってみましょう。そして聞き込みをするのよ。何かこのストーリーの答えが見つかるはずだわ。これは確信よ。」
私はなんて幸せなんだ。彼女は素晴らしく優しい良妻だ。これからは全てが上手くいく。私はそう信じて疑わなかった。

第五章 ハウスキーパーに聞く

次の日は、まだ寒いとはいえ、よく晴れた空が広がっていた。
強い日差しが私に更に明るい未来への展望を与えてくれる。
既に、あの出来事についてはアンドレには告白した。随分気持ちが楽になったもんだ。
そして、この晩、私はついに気分良く素晴らしい快眠をとることができたのだ。
もう一週間になるが、”私”に遭遇して以来、あの夢を見なかった夜は初めてだ。

午前10時。私達はフェルカ通りを歩いていた。
アンドレが一緒という事実が私にはとても心強く感じられた。いくら私がハンガリー語が上手く喋れても、やはりネイティブの人と円滑にコミュニケーションをとれるのは彼女のほうだろう。

初めに聞き込みをした人物はハウスキーパーだった。
建物の清掃から戻ってきた際に声をかけた。階段にモップをかけたり、エレベーターや照明のチェックをすることを生業とする彼女は、一階にある小さな部屋に住んでいる。
沢山の質問をさせてもらった。
私に似ている人物がここに住んでいないかと尋ねると、私の顔をまじまじと舐めるように見た後、「居ない」と言った。
アンドレは、どれくらいここで働いているのかと、そのハウスキーパーに尋ねた。
その答えは、21年。居住者全員を知っているかとの問いには、「知っている」とのこと。最近新しい家族等は入ってきてないかとの問いには、「居ない」。
そして最近、私に似た人物がここから入居もしくは転居していないかとの問いにも「居ない」とのこと。
私達は彼女に礼をしてその場を離れた。
外の通りに出た私達はお互いに怪訝そうな顔を見合わせた。
全ては私の空想だったのか、そんなことを頭がよぎった。
「もしかしたら、この辺りの人では無いのかも」
私が気をやんでいるかと気にした彼女はそう言ったくれた。
「もしくは......
私が続けた。
「多分、彼は別の建屋に住んでいるんだ。あの酒蔵がある建物とか、私は結局、彼を酒蔵の中で見つけることは出来なかったし」
「そうね、あるかもね、じゃ、行ってみましょう」

私達はジョージー通りに移り、酒蔵の外で立ち止まった。
「それで」
アンドレは酒蔵へと続く階段を見下ろして
「ここがあなたが私をほうっておいて、連日、来ては時間をつぶしていた場所ね!」
私は顔が紅潮していくのを感じた。
「ごめん」
「冗談よ、ダーリン!」
彼女は悪戯っぽく笑っていた。

「見て、この建物の区画のメインエントランスは酒蔵の入り口の隣になっている。雪の降る暗い夜に、その人がどっちに入って行ったかを間違えるなんてことは、これなら起こりえそうだわ」
「確かに君の言うとおりだ」
しかし、雪の中、つかない足跡に関してはどう説明がつくのだろう。私にはずっと引っかかっていた。

建屋に入り、私達はもう一人のハウスキーパーに会った。
今度は、ここで働いて20年になる50代と思われる男性だ。
私達は先のハウスキーパーにさせてもらったのと同じ質問を彼に問いかけた。
しかし得られた答えも先に聞いたのと同じ。彼も又、私と似た男など見たことがないと言う。
彼の答えに私は意気消沈した。アンドレが、やはり私がおかしいのではないかと勘繰るのではないかと不安だ。
そんなことを考える私の手をアンドレはとり
「ちょっと!元気出して!」
彼女は笑っていた。
「ねぇ、あなたの大好きなあの酒蔵で飲まない?」
そういうと彼女は目を丸くする私を尻目に、酒蔵へと続く階段をカツカツと降りていった。驚いた私の返事など待つこともしない、彼女の後にそのまま続くしかなかった。

バーマンは私を温かい笑顔で迎えてくれた。
「友達は友達を連れてくるもんだな」と彼なりのジョークを言っていた。
私は彼にアンドレを紹介し、私達はワインを片手に酒蔵の角に立って、今までのことを話し合った。
「アンドレ。全てにおいて重要なことが一つあるんだ」
「妙なことを言っていることは解っているが、私が思うに、彼は私に似ている人物ではない。彼は”私”だった
この意見については、私がアンドレに告白した際に既に話している。その時は彼女は笑って有り得ないと言った。しかし私は心の奥底で、この説は間違っていないと信じていた。
「けど、ジョン」
彼女は言った。
「いったい、何がどうなって、そんな事に?」
「解らない」
「ただ、そう感じるんだ。だから私達はこの辺りの建物に住んでいる誰かを探すべきではない。多分、探すべき人っていうのは。。。うん。。。この世のものでない誰か。そしてそれは、今の私なんじゃないかって思えるんだ」
アンドレはしばらく固まっていた。強い眼差しで真剣に私を見ている。
「ジョン」
彼女は重そうに口を開いた。
「ちょっと待って...だとするとあなたは一体何?そんなようなこと初めていうわね。それは一体どういう意味?」
「それが解ってたら楽だろうな」
頭を抱えた私は難しそうに続けた。
「私に言えることは、私の頭の中で妙な考えが在って、そいつらが、これは起こりうることなんだって主張しているんだよ」
会話がなくなると共に私達は飲むのを止め、酒蔵を後にした。

帰り道、私は話を切り出した。
「アンドレ、信じてくれ。君の助けが必要だ。今、私に何が起こっているのかを感じて欲しい」
「信じようとしているわ、ダーリン」
歩きながら彼女は私に向き直った。
「ただ、すごく難しいわ。受け入れることが難しい」
「アンドレ、そうだな。でも、それは私もそうなんだよ」

第六章 ドッペルゲンガー


この土曜日から私の生活は以前と同じになった。
次の月曜に仕事に行った際も、私は以前の自分を取り戻し、物事は上手くいった。
例の夢もみなくなり、毎晩訪れていたフェルカ通りと酒蔵には行かなくなった。
毎日ではなく、週に1、2回になっただけだが。

しかし、大きな変化が訪れた。
水曜日に医者から帰ってきたアンドレが大きなニュースをもってきたのだ。
なんと妊娠しているというではないか!
この上なく幸せな報せだ。
私達は家族を始めることについての話をよく交わしていた、けどこんなに早くその時が訪れるなんて。

その日の後、彼女は最も大きな仕事を無くした。
週に15時間の国際銀行での仕事だ。
彼らはもうハンガリー語のレッスンに金を使いたくないらしい。
なんて上がったり下がったりの人生なのか!

一週間かそこら後に、私はゾルツに、酒蔵のバーテンにアンドレが最も重要な仕事を無くしたことを話した。彼はバーを手伝ってくれる誰かを探しているといった。最もアンドレのような知的な女性がするような仕事ではないと付け加えていたが。けどそれなりの給与は用意してあげるということと、あのような場所には女性が必要だと言うのだ。
私はアンドレにそのことを話し、どうかと伺ってみた。
結局、彼女はバーで働くことになった。
給与は教職に比べれば及ばないが、酒蔵は自宅から近い。それに以前のように沢山の時間を授業に費やすことも無い。そして彼女はすぐにバーを変えていった。
彼女があそこで働き始めて一週間後、バーを訪れた時には様子がすっかり変わっていた。
良くなっていたのだ。
バーには花が飾られ、壁には美しい画が掛けられていた。
「ゾルツに提案したの。バーの片側にテーブルと椅子を置いて座れるスペースを設けることをね」
ある夕食の後、彼女は言った。
「彼は同意してくれたわ」
「何故そうしたかったんだい?」
「そうね、お客さんが増えるからかな。もう少し入ってみたくなるようにしてみたかったの」
彼女はまた、一言付け加えた。
「特に女性は気にいるわ」

彼女は正しかった。
バーには男性と同じ数だけの女性が来るようになった。
これにはゾルツは非常に満足したようだ。

しかし、こういった新しい生活の中、一方で私は”私自身”との奇妙な出会いについて忘れられたわけではない。
私は死後の世界に関する書物を沢山読み始めた。私にとっては全く新しい事についてだ。そのような事は全く知らなかったし、いろいろ知ることが出来た。
そして非常に興味深いことを発見した。
いろいろ知る内に、私に起こったことに関連して最も興味ぶかい発見はこう呼ばれている。
ドッペルゲンガー:
英語が語源のドイツ語で意味は二重体分身体となる。
一種の霊的なもので、現実に生存している身体の複製のような存在。
自分の姿をした者が何かをしたり、伝えようとする現象。
"所有者”の身に危険が迫っている場合に、それを知らせたり、または死が近いことを示唆する。
ドッペルゲンガーは”所有者”にしか、その姿を見ることは出来ない。
(だから足跡も見ることが出来ないし、バーでゾルツも見ることが出来なかったということか...
例外として、特に重要な事柄であれば、所有者に近い関係の人間にその姿を見せる場合がある。これは通常、不幸を呼ぶケースであり、間もなくとても深刻な問題、または死が迫っていることとされる。

この記事のあるページをアンドレに見せ、読ませてみた。
「で、これがあなたが見たもの?」
彼女は驚きながらそう言った。
「そうだな、そんな感じがしないかい?」
これでドッペルゲンガーに会ったという推測はできた。
しかし次の疑問が直ぐに出てくる。
何故、私に?

第七章 休暇



時は過ぎ、八月に入るとアンドレはゾルツとする仕事を辞めた。
この夏の休暇は私達のマンションの小さな一部屋を幸せな色に塗り替えることに時間を費やすことにしたのだ。もちろんこれから生まれる私達の家族の為に。
そして9月16日。女の子を授かった。
私達は彼女をケイティと名づけた。
それからというものの、その赤ん坊は両親の今までの人生、身の回りを大きく変えていったのだ。
大変だったが、私達はとても幸せだった。そしてフェルカ通りで起きたことなんて忘れていた。

私達はクリスマスは家族を連れイギリスに帰ることに決めた。両親にケイティを会わせたかったし、これはいい機会だった。
すぐに赤ん坊を連れての休暇が簡単でないことに気がついた。あなたは色んなものを持っていかなければならない!準備が出来るまで相当な時間がかかってしまった。

フライトは12月22日、ブダペストからロンドンのヒースロゥ行の便。
私の両親は空港で私達をピックアップしてくれた。空港からスウィンドンの隣村にある私の実家まで、およそ10時間程のドライブだ。
家に着くなり、みんなが歓迎してくれ、親戚含め、みんな喜んでくれた。
アンドレにとっては、これでようやく3度目の私の実家の訪問になった。そしてこれが彼女にとって2度目のイギリスでのクリスマスだ。今回は新しい家族を一緒に連れてきた。
当然の事だが、ケイティは皆の関心の中心だった。
翌日、母が「ケイティの面倒は私が見るから、あなた達はスウィンドンでクリスマスショッピングでも楽しんで来なさい」と言ってきた。ケイティを構いたい気持ちを隠すことが出来ていない。
私達は遠慮なくスウィンドンに行った。町はカラフルな光で装飾され、クリスマスツリーを至る所に見ることが出来た。
世話しない雑踏の多くの店がクリスマスプレゼントを買いに来た客で溢れている。
私達はショッピングを楽しみ、予め用意していたハンガリー式クリスマスの物に加え、更にプレゼントを買った。
この夜、父は会社でのクリスマスディナーに出席していて、アンドレはというとショッピング帰りで少し疲れていたようだ。なので私は古い友人に会えることを期待して、村のパブに向かった。
2人の隣人を発見し、しばらく話したが、残念ながら親しい友人は来ていない。ちょうど私がパブを出ようとしたときに、ポール ハリスは中に入ってきた。
ポールは私の学生時代の親友の一人だ。私の最近の何回かの帰郷の際には彼は村に居なくて遭えなかったが、ここで再会できた。彼は卒業以来、ジャーナリストで色んな所に住んだと聞いている。

「ポール!」
彼がパブに入ったところを見るなり私は彼の名を呼んだ。
「ジョン!」
「おまえと会えるなんて!」
「久しぶりだな!」
「ちょうど店を出ようとしたんだ。知っている顔を見かけないもんでな」
「いや」
彼は少し悲しい表情を浮かべた。
「殆どの奴等はもう居ない。別の場所だよ。仕事や妻のおかげでな!」
「何飲む?」
私は聞いた。
「俺はパイントだ。頼む」
我々はそれぞれ1パイントのビールを持ってパブの角の静かな場所でお互いの近況を語り合った。

「家族のところに戻るさ、クリスマスの為にな」
「自分のか?」
私は彼の妻のリズのことを頭に浮かべ聞いた。
「そうじゃない」
彼はビールを下に見たまま答えた。
「リズは去年の夏出て行ったよ」
「気の毒に」
私は答えた。
「何と言ったらいいか」
「心配するな、もう最悪な事は終わったんだ。ほら、今度はお前の事を話せよ。母さんが言っていたが子供が生まれたんだって?」
私はケイティ、そしてアンドレ、ブダペストでの生活の事を話した。
その後、2、3杯のビールを飲んだ後、”私自身”に会ったことも。
彼は私の古い親友だ。こんな話でさえも真摯に向き合ってくれるはずだ。

「ジョン、面白いな」
彼は笑いもしなければ、馬鹿にすることもせずに何か思い出そうとしているようだ。
「同じような話がある。- ドッペルゲンガーと自分自身に遭遇する人々 - 俺が携わった雑誌にそんな記事があった」
「読んだか?」
私は有力な情報が得られるのではないかと期待した。
「最初の部分だけだな、けど俺が覚えているのは、それを体験している人なんて何処にでも沢山いるということだ」
「そうなのか?それはいいニュースだな。私は自分が本当におかしな何かになってしまったんじゃないかと思っていたからな!」
「それは違う、ジョン。お前はそうじゃない」
そういって彼は微笑んだ。
「けど気をつけろよ、殆どの人がドッペルゲンガーを見た後、何か悪いことが起こったって話だ」
「ああ、ブダペストにあった本でな、そのことは知っている。とにかく私一人じゃないって事が知れてよかった!」
「どうやら少しは安心してくれたようだな」
彼は真剣に顔になり続けた。
「その雑誌の記事で俺が覚えているのは、ドッペルゲンガーが、その女性に息子を学校まで毎日、車で送っていくのは止める事を忠告しようとしたそうだ。彼女はそれを無視してた。そしてその日のうちに事故に遭った。それで彼女の息子は死んだんだ」
「本当か!?」
「そう、多分、お前も気をつけるべきだぞ」
「そうだな、そうする。心配しないでくれ」

一方で、自分の身に起こったことがそれほどレアでないことに安心した。だが一体、私のドッペルゲンガーは私に何を伝えたかったのか?それを考えると妙に落ち着かない。だから私は、それらは忘れてクリスマスを楽しもうとした。それは簡単ではないけれど。
残りの休暇、イギリスでのクリスマスはあっという間に過ぎてった。
私達家族は美味しい食事をとり、ゲームをして、友達や親戚を訪ねた色んな場所に行き、本当に楽しい時間を過ごした。そうしてすぐにハンガリーに戻らなければならない時を迎えた。
私達は12月29日の便で戻り、雪に囲まれた田舎にあるアンドレの家族の下で年末年始を過ごした。家からそれほど出ずに、座ってテレビを見ている以外、特にすることがなかったのは、やはり雪のせいかもしれない。
私はドッペルゲンガーの事を次第に考えるようになっていった。あの出会いには一体どういう意味があるのか?”彼”が伝えたかったことが何なのか?
アンドレは私が彼女の家族と過ごすのを楽しんでいないと言う。私が何故かと聞くと、彼女は怒り喧嘩に発展した。
「すっかり、あんな馬鹿なこと忘れていると思っていたのに!」
「アンドレ、そうしようとしている。けどまた考えてしまうんだ。また戻ってしまうんだ」
「そう?あの時、別れてしまったほうがよかったのかも知れないわね!」
「私は、家族を大切にしている人がいいわ。妻と会話して娘と遊んでくれる人よ。一日中座ったまま、家の中でぼーっとしている人なんか誰が必要とするの!」
そういうと彼女は部屋を出て行った。
私はアンドレが疲れていて、もっと家族に気を配ってほしいと願っていることは解っている。なのでそうしようとはしていた。ところが理想とは程遠い時間が過ぎていき、そのまま私達はブダペストの自宅に戻ってきた。
そして1月5日、いつもと同じように出勤した。